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したっぱプログラマーの日記(The diary of a minor programmer)

2007/11/24(土) 頭の良い人の会話術

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自分が頭が良いとレスペクトしている人の会話には、ひとつ共通点がある。
相手のしゃべったことを自分の言葉で置き換えていることだ。

話し手:〜なんですよ。
頭の良い人:それは、〜ってことですね。

といった感じ。
「ってことですね。」というセリフが多い。
ちょっと自分の解釈に自信がないときには、
「ってことですか?」になる。

常に自分の解釈が間違っていないかを確認しつつ、会話の流れを作ってゆくというスタンス。

これは大いに見習いたいのだけれど、なかなかできない。
何でできないかというと、「ってことですね。」って言った後に、相手から
「ん?それは、ちょっと違う気がします。」と言われるのが怖いから。

その点、頭の良い人たちは、相手の言ったことを的確に要約した形で「〜ってことですね。」っと言えている。

僕がやろうとしても、「ん?それは、ちょっと違う気がします。」を会話の中で何度も言われてしまうか、
もしくは、「ってことですか?」ばかりになって、「くどいよ!お前!いちいち確認すんな!」って思われてしまいそう。

今、思いつく対応策としては、うーん…、場数を踏むことかなー。
とりあえず、恥をかく覚悟で、自分なりの要約を合間合間に入れて会話をしてみようと思います。

1: mynz 2007年11月25日(日) 午後1時23分

自己啓発とか速読とかもそうだけど、わけんのこの手のエントリを読んでいると、キン肉マンのジェロニモを思い出す。「人間じゃだめだ。オラ、超人になりたいんだ!」みたいな。

わけんの世界観は"頭のいい人(超人)"と、"普通の人(人間)"で構成されていて、自分は普通の人だから、何とか訓練して前者になりたいと。

その向上心とかチャレンジ精神はホント素晴らしいと思う。反面、自己に対してコンプレックスみたいなモノを不必要に感じすぎだと思える。それに自分の中のロジックが二元論に収束しがち(先日の外人/オタクの件もそうだけど、世の中は○○と××に大別できるとか)。

もっと多様に価値観を持つよう心がけるといいんじゃないのかなと。

2: わけん 2007年11月28日(水) 深夜0時26分

>それに自分の中のロジックが二元論に収束しがち
自分でも認識はしています。
物事を理解しようとするときに、一旦、二元論に落とし込むと安心するんですね。
実際には、世界は曖昧で連続的な物なのだけれど、分解能を低くして離散的に捉えないと自分の脳は理解ができない。
僕の脳みそは、二元論なり何なりでいったん単純化した後に、論を細分化してゆくという課程を経て、世界を理解してゆきます。

以前読んだ本で、脳科学の実験で、ネズミにドとレの音の違いを覚えさせるというものを読んだことがあります。
2匹のネズミを用意して、一方には、いきなりドとレの違いを覚えさせようとします。
もう一方のネズミには、ドとそれよりだいぶ高い音の違いを教えるところから初めて、徐々に細かい音の違いを教えていったそうです。
結果として、前者のネズミは最後までドとレの音の違いを聞き取ることはできず、後者は違いを聞き取ることができるようになったそうです。

これと似たようなことが人間にも言えるんではないかと。
少なくとも、僕の脳は連続的な世界をそのまま捉えることができないように感じるので、
物事を捉えるときには、いろんな形で二元化しようとしてみます。
というか自然と脳がそのように動いている。

二元論は世界を正確に捉えた物ではないので、固執しすぎると現実とのギャップから歪みが生じますが、
ブログの記事や、会話の中で、おもしろおかしく、わかりやすく話を展開させるのに便利ということもあり、
多用してしまっていますね。

>コンプレックスみたいなモノを不必要に感じすぎだと思える。
そうなんですよね。
コンプレックスをなくしたいとは思わないのですが、もうちょっと減らしたいですね。
コンプレックスも適度なら良い方向に働くんですけど、自分の場合、ちょくちょく過剰になって、
下手すると鬱になってます。
なんとかしたいものです。


>もっと多様に価値観を持つよう心がけるといいんじゃないのかなと。
多様な価値観を持ってない、とは思っていなかったのですが…
あー、そういえば、頭の良い悪いは二元論になりがちかも。
なんとなく、自分がコンプレックスを持っている物に関しては、価値観が1次元的になってしまっている気がしますね。
自分がコンプレックスを持っている物に関しては冷静に物事を見れないのだと思います。

3: mynz 2007年11月30日(金) 午後6時43分

まず最初に、申し訳ない。
前の書き込みを終えてから、「なんと野暮なことを書き込んでしまったんだ」と後悔しておりました。

自分は他人の考え方にどうこういえる立場にあるわけではないし、ましてや人の向上心に水を差すような発言を残してしまい反省しております。できれば読まれる前に消去したかったぐらい。

結びの“もっと多様に価値観を持つよう心がけるといいんじゃないのかなと。”も全然繋がっていないしね。

ともかく、本題の「人の発言を受け継いで言い換える」技法は是非実践して下さい。きっと効果はあるはず。

それとは別に、先のコメントで述べられている二元論についてはちょっと異論を唱えたい。

自分は二元論による思考は「落とし穴」みたいに働くコトが多いのではと思っている。

確かに、二元論で考えるのは容易い。何か問題があれば白紙の解答用紙に自分の意見を述べるよりも、○か×かの二択の方がずっと答えやすいごとく。その脳の働きは人もネズミも同じようなモノなのかも知れない。

だけど、人の住む世界はネズミのそれとは違う。我々が享受する文化、思考、芸術、政治、歴史にはとても複雑な価値や評価や感性が入り乱れ、安易に二元論に落ちてしまえばあっという間に本質を見失ってしまうことも多々あるじゃなかろうか。二元論に落とし込まない、落ちないことが人間の持つひとつの賢さではないかと思っている。

たとえば、非常にラフな例だけど、「頭の良い人」をどう選ぶか。大雑把に「東大を出た人は頭の良い人、それ以外は普通のひと」と評価するのは非常にわかりやすいけど、あまり豊かな判断基準じゃないかもしれない。じゃあ、他校を含めて出身校の偏差値順にランキング付けすれば連続的な評価ができるけど、それも求める本質に沿っているのか分からない。

もし、二元論(もしくは一次元論)を用いて、理解すべきモノを理解していないにもかかわらず、理解した気に陥ってしまったら、それは「罠」なんじゃないのかな。

(メタな話は場と時間を共有している時に酒や食事を交えながら行うべきモノなんだろうし、機会があればまたその時に)

4: わけん 2007年12月01日(土) 午前11時28分

> 自分は他人の考え方にどうこういえる立場にあるわけではないし
たとえそうであったとしても、他人の考え方にどうこう言ってもらえるのは、個人的にはありがたいです。
気づかないうちに裸の王様になってしまうのを何よりも恐れるので。
肯定する意見は、言う方も楽なんでいっぱい集まりますけど、否定するような意見は言いにくいこともあって、集まりにくいですからね。


「罠」については、価値観が、ある一次元に固定化されるのがまずいということですよね。
価値観が狭い範囲に固定化されることと、二元論はまた別だと思うのですよね。
二元論というより、二極化と言った方が良い気がします。

さきの偏差値の例だと、「偏差値50以上は頭がいい、偏差値50未満は頭が悪い。」これは、これで良いと思うんですよ。
それは、偏差値というベクトルの上での話なわけですから。

んで、ここでは、2極化が役に立って、
まずは「偏差値50以上は頭がいい、偏差値50未満は頭が悪い。」
ということを理解し、そのあと、
「偏差値60以上は頭がいい、偏差値40〜60は普通、偏差値40未満は頭が悪い。」

「偏差値70以上はめっちゃ頭がいい、偏差値70〜60はそこそこ頭がいい、偏差値60〜40は普通、偏差値40〜30は頭が悪い。偏差値30未満はめっちゃ頭が悪い。」
という風に、世界が細かく見えてくる。
これは、世界を理解するにあたって極自然な流れだと思うのですよ。

それとは別の問題として、じゃー頭が良いっていうのは偏差値だけなの?という問題がある。
今まで偏差値という次元で測っていたけれども、実は「頭の良さ」を測るのに他の次元があるんではないか?と。
それは、行動力かもしれないし、会話能力かもしれないし、何か、もう無数の次元が考えられる。
そして、二極化という手法は、そのような発送が生まれることを、邪魔する物ではないと思うのです。
なんというか、軸が直交してるからというか、x軸とy軸だからというか…。

ゆえに、価値観が、ある一次元に固定化されるのはまずいけれども、
「他の価値観もあるよ。」ということを認識しておいた上で、その次元を二極化して考えるというのは、有効な手段なのではないかと思うわけです。

ともあれ、

>(メタな話は場と時間を共有している時に酒や食事を交えながら行うべきモノなんだろうし、機会があればまたその時に)

には大いに賛成です。

5: mynz 2007年12月01日(土) 深夜2時05分

…うぅん、二元論については自分の考えていたコトとはちょっと違う、というか改めて考えてみると、始めから話がうまくかみ合ってなかったのかも。申し訳ない。

自分の言いたかった「二元論」は、どういうプロセス(方法)を用いて思考するかという話ではなく、(最終的に)どういう“論”が導かれるか、が問題なんだ。

その意味ではわけんの説く、そのアルゴリズム的な思考プロセスであっても、なんだってても構わないよ。(ちなみに、わけんと自分はモノの考え方が全然ちがうなぁと再確認させられたけど、それはそれでよろしくて)

ただ、ブログにあがっている記事を読む限り、背反する対比的なモノを用いて、いささか強引なところで論が終えているなぁ、と感じることが度々あるという指摘。

まぁ、それでも、それ自体がおもしろおかしく誇張された演出である部分もあるだろうし、そもそもブログで賢そうに振る舞う必要もないのだから、そんな言いぐさ自体がが野暮だったと反省。
(少なくとも、自分は日々楽しく読ませてもらっているよ)

6: わけん 2007年12月02日(日) 午前9時54分

>少なくとも、自分は日々楽しく読ませてもらっているよ
ありがとうございます。励みになります。


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