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したっぱプログラマーの日記(The diary of a minor programmer)

2008/02/20(水) 「追いつかない」って何だ?

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載ったのは ちょっと前ですが、ほぼ日に糸井さんとさんまさんの対談が載せられています。
http://www.1101.com/suimin/samma/index.html

僕は糸井さんのお話すごく好きです。
右脳と左脳をバランスよく使われた言葉といった印象を受けるし、思考の枝葉が加速度を帯びて伸びてゆくような印象を受けます。
また、抽象的な議論で非常に高度なことをお話しされているのだけれど、使用されている言葉は非常に平易なのが面白いです。

記事を読んでいると、自分の脳内の血流が増していくのを感じます。
そして、糸井さんの思考を追うのに脳みそがフルスロットルになり、読み終わった後には良い汗かいたなぁという感じになります。

さて、ここの第15回の記事で「追いつかない」というキーワードが出てきます。
この「追いつかない」という意味が良く分からなくて困っています。
これは、自分の欲求に対して、それを実現するための階段を上っていくと、そうしている間に見える世界が変わってきて当初の欲求自体が変質してしまうってことなんでしょうか?

それとも、欲求を満たす前に人生が終わってしまうってことなんでしょうか?

あと、「敗者がいるから勝者がいる」という あいださんの言葉に対する違和感ということもおっしゃっていましたが、僕の理解力ではこれも理解できませんでしたorz

「敗者がいるから勝者がいる」という言葉は、敗者がいるからこそ勝者も存在できるんだよってことですよね。
だから敗者にも存在意義があるんだよ。逆に勝者は敗者の存在をありがたく思いなさいよ。ってことなんかなぁと思うのですが、それと上記の「追いつかない」感覚との関連性が良く分かりませんでした。

どなたか、わかる方がいらっしゃいましたらご教授お願いいたしますm(_ _)m

1: mynz 2008年02月21日(木) 午後0時37分

野暮ながら書いてみる。

あの文脈で「追いつく」ってのは、理想とか目標を設定してそれに対して「追いつく」ってコトだと思うよ。もっと人のためになれる人間になろうとか。でも、その理想に向かうために自分を改め、努力や行動を起こしても、結局立ちゆかず、雲を掴むような結果になるってことやね。

それを受けて、そういった夢や理想という「未来」は空虚でしかない。あるのは「いま」だけだと。だから空想的理想中心主義な標語である「悔いのない人生を」なんてのは受け入れられないと。

また、「敗者がいるから勝者がいる」ってのは、たとえば勝負事をして、勝者が決まれば必然的にその敗者もいるという当たり前のことを逆手にとって、敗者というスポットの当たらない存在から勝者を導き出し、発見的体解を試みている。

だけどそれは、世の中とか社会っていうのはある種のゲイムであり、大概において勝ち負けが成り立っているという暗喩になっていて、それが「人生、生きてるだけで丸儲け」思想なさんまにとっては、そういった前提自体が根本的に違うと感じると。

勝ち負けってのは、物事が終わった結果、もしくはある止めた時間で観測できるモノ。だけど、「生」のライブの流れの中には勝ちも負けなど存在せず、そういう世界観自体がナンセンスだとみているんじゃないかな。

--

自分は糸井もさんまも好きじゃなくて、特に関西に住んでいるとTVの化身の様なさんまを見る度にうんざりしてたりもしたけど、この対談は面白いね。

2: わけん 2008年02月21日(木) 午後7時19分

わかりやすい解説ありがとうございます!

僕には、その「生」のライブの流れっていう概念が いまいち つかめないんですよね。
思考の中では時間は止められるじゃないですか、全て その中で考えてしまいます。「生」のライブの流れっていうもの感じて世界が見られたら、また違うように見えて面白そうなのですが、今の僕にはまだわからないですね。

あと、夢や理想という「未来」が空虚なのかも良く分からない。
「自らの手で世界平和を実現したい!」っていうのは空虚な未来かも知れませんが、「TOEICで800点取れるようになりたい!」ぐらいの理想なら叶う未来じゃないですか。んっ、というか、もしかして、さんまさん的には「TOEICで800点取れるようになりたい!」は夢とか理想ではなくて「いま」に属するのかな?
手に届く範囲の夢や理想が「いま」っていうことなんでしょうか?

手に届く範囲のことをやるので手一杯で、とても本当の夢や理想には「追いつかない」ってことなのかなぁ。

3: mynz 2008年02月22日(金) 午前8時45分

そりゃ、対談の「追いつかない」てのは資格試験を取りたいとか、そんな些末な問題を話しているのじゃないよ。もっと高次元…といったら何だけど、強いて言えば「さんまはさんまから出られるか? − to be somebody (else)」ってコトだよ。

だけど、「いま」とか「生」とか「ライブ」てのは「さんまがさんまであること - Let it be」なんだよ。

4: わけん 2008年02月22日(金) 深夜3時24分

ふむふむ。なんとなくわかった気になりました。

僕の理解を言葉に直してみると、

スポーツ、ギャンブル、女というものは、「いま」何かをすることによって 望む結果が得られそうなもので、「いま」得ないと意味のないもの。別な言い方をすると「いま」の勝ちを目指すもので、つまり、「生」っぽくて、「ライブ」なもの。

それに対して「世界平和」とか「非なまもの」は、望む結果をするためには、コツコツ何かをしてく必要性があるし、
そもそも何から手をつけていったら良いのかわからない。しかも手に入ったら手にはいったで、そのときには、
「世界平和」なんてそんな欲しくないなぁってなってる。つまり いつまでたっても「追いつかない」。

んで、さんまさんとしては、そんな「追いつかない」ものを目指す世界観は嫌で、というか「追いつかない」ものをどうにかしようと思ったってどうしょうもないと思っていて、だったら常に「生」なものをどう扱うかを考えていたいと思っていると。

うまく言葉にできませんが、こんな感じですかねぇ。

何度も野暮な説明をさせてしまいました。申し訳ないっすm(_ _)m

5: mynz 2008年02月23日(土) 午後0時20分

うぅん、やっぱり自分の考えと全然違うと思うけど、自分自身もさんまではないし真意はわからない。

ずばり具体的に言って、さんまが「追いつけなかった」一つに「大竹しのぶに離婚を突きつけられない自分になる」ってのがあったはず。

理想の彼女を手に入れて結婚したのに相手に愛想を付かれる。事態が深刻になって、「このままではアカン!自分を改めて彼女にとって理想の男になる!」って思った。だけど、理想には“追いつけなかった”。「さんま=今」から変わるために何をすれば良いかすらわからない。

さんまの哲学は、「今=自分」に生きることへの肯定だと思うんだよ。「追いつけない」の言葉には自傷ぎみなニュアンスがあり、あこがれもあるんだけど、でもやっぱり無理なんだよ、彼には。それを自分に悟った。

例えば、対談の中にも宗教の話が出てきたけど、さんま哲学対比として、キリスト教を持ち出すと面白いかもしれない。キリスト教ってのは天国と地獄があって、信者は死後に天国に行けるために聖人を敬い、今を清らかに送る、と。これは究極的な意味で「“未来で勝つ”ために“今と私”を捧げる」んだよ。

一方、さんま哲学は、ギャンブル=スポーツ=女が象徴するように、この世をライブにいきる。行き当たりで、ギャフンなんて言ってしまうことがあるかもしない、女で痛い目にあうかもしれない、でも、大きな勝利を掴むことだってあるかもしれない。そんな流の中に身を投じて、そして最後に野垂れ死ぬ美学なんだと理解している。

6: わけん 2008年02月23日(土) 午後2時35分

mynzさんの言っていることは、すごく理解できます。

しかし、対談の第15回の内容を何度か読み直しているのですが、まだ もやもやとしてすっきりしない部分があるんですよね。自分でも何が すっきりしないのかも はっきりとしていないのですが…。むぅ…。


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